本田宗一郎の書籍を徹底紹介します。





未亡人は言った。「本田宗一郎を殺したい」―F1還らざる勇者たち |ジョーホンダ

未亡人は言った。「本田宗一郎を殺したい」―F1還らざる勇者たち
ジョーホンダ
ベストセラーズ 刊
発売日 1995-05
価格:¥1,529(税込)




ホンダF?1の影の部分・・・だけか?? 2005-11-26
 本書は、センセーショナルな題名になっているが、決して前編がホンダを責めているわけではない。F?1写真家ジョー=ホンダ氏が、取材中に目の前で死亡した3人のドライバーについて語ったものである。

 冒頭には、ロータスのコーリン=チャップマンのドライバーの命をも引き換えにした新規の工夫についての批判も入っている。



 題名の事件は、ホンダF?1第一期に本田宗一郎氏が現地の中村良夫監督と別系統で開発した空冷のRA302を無理に持ち込んだ1962年のフランスGPの話である。ジョー=シュレッサーの話である。今、忘れてしまったが、このシュレッサーの息子が後年スポット参戦したレースでホンダのマシーンと接触して優勝を逃したことを思い出す。



 この話は、必ずしも批判的な部分ばかりではない。むしろ、やや不謹慎ではあるかもしれないが、周囲には悲惨であってもF?1に乗って命をかけることを厭わない男たちへの賛辞も入っているのではないか?



 でなければ、ジョー=ホンダさんがこの本を書くとは思われない。


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この記事は2006/7/17に作成しました。

【本田宗一郎の経歴】
1906年 生まれ。

1922年 高等小学校卒業後、自動車修理工場「アート商会」に入社。

1928年 アート商会から暖簾分けの形で浜松市に支店を設立して独立。宗一郎ただ一人だけが暖簾分けを許される。

1935年 磯部さちと結婚。

1937年 自動車修理工場の事業を順調に拡大させ、「東海精機工業」(現・東海精機)の社長に就任。「アートピストンリング研究所」を浜松市山下町に設立してピストンリング開発に取り組むも、うまくいかず。浜松高等工業学校(現・静岡大学工学部)の聴講生となり、金属の研究をする。

1939年 アート商会浜松支店を従業員に譲渡し、ピストンリング製造を手がける「東海精機重工業」を興し、自動車部品製造に乗り出す。

1942年 東海精機重工業がトヨタから出資を受け、石田退三を社長に迎え、自らは専務に退く。

1945年 三河地震により東海精機重工業浜松工場が倒産。自らの持つ東海精機重工業の株を全て豊田自動織機に売却して同社を退社、「人間休業」と称して1年間の休養に入る。

1946年 本田技術研究所設立。39歳の宗一郎は所長に就任。

1948年 本田技研工業株式会社を設立。資本金100万、従業員20人で二輪車の研究をはじめる。

1949年 藤沢武夫と出会う。

1973年 本田技研工業社長を退き、取締役最高顧問に就任。

1974年 さち夫人とともに世界中の関係者を訪問。

1983年 取締役も退き、終身最高顧問となる。

1989年 日本人として初めてアメリカ合衆国の自動車殿堂入りを果たす。

1991年 84歳で死去。


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