本田宗一郎の書籍を徹底紹介します。





本田宗一郎夢を力に―私の履歴書 |本田 宗一郎

本田宗一郎夢を力に―私の履歴書本田宗一郎夢を力に―私の履歴書
本田 宗一郎
日本経済新聞社 刊
発売日 2001-07
価格:¥680(税込)


本田は「私の履歴書」でこう述べている。「私がやった仕事で本当に成功したものは、全体のわずか1%にすぎないということも言っておきたい。99%は失敗の連続であった。そしてその実を結んだ1%の成功が現在の私である」
自動車修理工から身を起こし、一代で巨大自動車メーカーを築き上げ、「HONDA」ブランドを世界にとどろかせた希有の成功が1%でしかないならば、残りの99%はなんなのか。本田の言葉をたどると、失敗した99%にこそ、たぐい稀な人間ドラマが見つけられる。
本書は本田が56歳のときに連載した「私の履歴書」と、1962?1991年の足取りをまとめた編著者による「履歴書その後」、さらに「本田宗一郎語録」の3部構成で描きだしている。外国から体中に部品を巻き付けて強引に飛行機に乗り込んだり、四輪自動車への進出を規制する官僚にたて突いたりといった破天荒なエピソードに満ちあふれている。モノづくりへの情熱や創意工夫、物まねを嫌い独創に賭ける精神、ヒューマニズム、そして天才技術者としての側面など、本田の原点もここに感じ取れる。また、強烈な成功体験をもつ創業者の世代交代問題などのテーマも取り上げられている。スーパーカブやN360などの開発経緯は、ホンダのマシン愛好家にとって見逃せないところだ。この本田の壮大な生涯は、不景気に萎縮するビジネスマインドへの大きな刺激となるだろう。(棚上 勉)

かっこいいな? 2006-03-08


名前はよく聞いていたのですが、やっぱり凄い人だったんですねー。

しかも、夢中になると、周りを気にせず突っ走る人だったみたいですね。「おいおい、それはやりすぎだろ!」って突っ込みたくなるエピソードも満載でした。飛行機に乗るときに、機械の部品でもっていきたいものを体中に服の中に隠して、無理矢理乗ろうとするところとか億かしかったですけど、そこまで夢中になれるものがあるのは、ある意味カッコイイナァー。


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この記事は2006/7/17に作成しました。

【本田宗一郎の経歴】
1906年 生まれ。

1922年 高等小学校卒業後、自動車修理工場「アート商会」に入社。

1928年 アート商会から暖簾分けの形で浜松市に支店を設立して独立。宗一郎ただ一人だけが暖簾分けを許される。

1935年 磯部さちと結婚。

1937年 自動車修理工場の事業を順調に拡大させ、「東海精機工業」(現・東海精機)の社長に就任。「アートピストンリング研究所」を浜松市山下町に設立してピストンリング開発に取り組むも、うまくいかず。浜松高等工業学校(現・静岡大学工学部)の聴講生となり、金属の研究をする。

1939年 アート商会浜松支店を従業員に譲渡し、ピストンリング製造を手がける「東海精機重工業」を興し、自動車部品製造に乗り出す。

1942年 東海精機重工業がトヨタから出資を受け、石田退三を社長に迎え、自らは専務に退く。

1945年 三河地震により東海精機重工業浜松工場が倒産。自らの持つ東海精機重工業の株を全て豊田自動織機に売却して同社を退社、「人間休業」と称して1年間の休養に入る。

1946年 本田技術研究所設立。39歳の宗一郎は所長に就任。

1948年 本田技研工業株式会社を設立。資本金100万、従業員20人で二輪車の研究をはじめる。

1949年 藤沢武夫と出会う。

1973年 本田技研工業社長を退き、取締役最高顧問に就任。

1974年 さち夫人とともに世界中の関係者を訪問。

1983年 取締役も退き、終身最高顧問となる。

1989年 日本人として初めてアメリカ合衆国の自動車殿堂入りを果たす。

1991年 84歳で死去。


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