本田宗一郎の書籍を徹底紹介します。





私の手が語る―思想・技術・生き方 |本田 宗一郎

私の手が語る―思想・技術・生き方
(評価:★★★★読むべし)

●本田宗一郎氏の商売の考え方、教育の考え方に共感しました。本田氏の考え方こそが、今の本田を作り上げたということが分かります。


●しかし、あまりに偉大な人は、周りの普通の人に理解されないので小さいときには苦労するようです。もし、あなたの子供が学校に行きたくないといったり、不良になったりしたら、大物の証拠かもしれません。あなたの子供を信じてあげてください。


■この本で私が共感したところは次のとおりです。


・よく「本田宗一郎は、大風呂敷を広げてものを言う人間だ」と陰口をささやかれていましたが、時がたつと主人の言葉どおりのことがやってきましたので、私は内心驚き、本当に不思議だと思ったものです。(本田さち)


・目先の成績にこだわり、独自の哲学にもとづく創意をすこしでも放棄するような考えが生まれたとき、企業は転落と崩壊の道をたどりはじめるだろう。


・あとひとつ、企業の体質をあやういものにするのは依頼心である。・・・・・・ろくにいじりもしないで、これは電気屋だと電気関係の技術者を呼んできて、自分は知らん顔をする。


・家の手伝いはしなくてもいい、ただ強制されるのは勉強だけ、といった状態はふつうの子どもにとってはつらいものである。


・自分が悪童だったときのことを考えると、あんなに教科が少なくて内容が単純でも、勉強がいやだったのだから、いまのように覚えなければならないことを山のように用意された子を気の毒なように思う。


私の手が語る―思想・技術・生き方
本田 宗一郎
グラフ社 (2003/05)
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おすすめ度の平均: 5.0
5 珠玉のエピソードの集合体
5 本田宗一郎の思想

【本田宗一郎の経歴】
1906年 生まれ。

1922年 高等小学校卒業後、自動車修理工場「アート商会」に入社。

1928年 アート商会から暖簾分けの形で浜松市に支店を設立して独立。宗一郎ただ一人だけが暖簾分けを許される。

1935年 磯部さちと結婚。

1937年 自動車修理工場の事業を順調に拡大させ、「東海精機工業」(現・東海精機)の社長に就任。「アートピストンリング研究所」を浜松市山下町に設立してピストンリング開発に取り組むも、うまくいかず。浜松高等工業学校(現・静岡大学工学部)の聴講生となり、金属の研究をする。

1939年 アート商会浜松支店を従業員に譲渡し、ピストンリング製造を手がける「東海精機重工業」を興し、自動車部品製造に乗り出す。

1942年 東海精機重工業がトヨタから出資を受け、石田退三を社長に迎え、自らは専務に退く。

1945年 三河地震により東海精機重工業浜松工場が倒産。自らの持つ東海精機重工業の株を全て豊田自動織機に売却して同社を退社、「人間休業」と称して1年間の休養に入る。

1946年 本田技術研究所設立。39歳の宗一郎は所長に就任。

1948年 本田技研工業株式会社を設立。資本金100万、従業員20人で二輪車の研究をはじめる。

1949年 藤沢武夫と出会う。

1973年 本田技研工業社長を退き、取締役最高顧問に就任。

1974年 さち夫人とともに世界中の関係者を訪問。

1983年 取締役も退き、終身最高顧問となる。

1989年 日本人として初めてアメリカ合衆国の自動車殿堂入りを果たす。

1991年 84歳で死去。


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