本田宗一郎の書籍を徹底紹介します。





「経営に終わりはない」藤沢武夫、文藝春秋(1998/07)¥460

経営に終わりはない
経営に終わりはない
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藤沢 武夫
文藝春秋 (1998/07)
売り上げランキング: 5,234
おすすめ度の平均: 4.56
5 ビジネス書で泣ける一冊
4 すばらしき女房役
4 本田ファンならぜひ読みたい一冊
(評価:★★★☆☆)


●藤沢武夫といえば、本田宗一郎とともに世界のホンダを作り上げた大経営
 者です。技術を本田が、経営は藤沢が分担しました。

 ・私は戦前から、だれかをとっつかまえて、いっしょに組んで自分の
  思い通りの人生をやってみたいと思っていました。(p15)


●戦後、自転車につけるバタバタエンジンから始まる本田の事業は、代理店
 捜しから始まり、オートバイ、自動車と発展していきます。


●このなかで、技術においても営業においてもホンダは自らの手を汚して
 事業を拡大していきます。米国進出においても、自ら販売網を立ち
 あげています。

 ・“たいまつは自分で持て”と私はしばしばいってきました。・・・どんなに
  苦しくても、たいまつは自分の手で持って進まなくてはいけない。これが私
  の根本の思想であり、また、ホンダのモットーともなりました。(p161)


●最近の例では、ホンダのCVTは自社製ですね。


●その二人の偉大さは、引退を決意したときの二人の会話から明らかで
 しょう。私は、なぜか涙が出てきました。

 ・「まあまあだな」
  「そう、まあまあさ」
  「ここらでいいということにするか」
  「そうしましょう」
  すると、本田はいいました。
  「幸せだったな」
  「本当に幸福でした。心からお礼をいいます」
  「おれも礼をいうよ、よい人生だったな」(p227)


●この本を読んで感じる爽快感は、リスクの高いベンチャー事業に取り組んで
 きた創業者の物語だからこそ感じるものなのかもしれません。

 ・創業者と普通の経営者とは、ちょっと違うと思うんです。創業者は
  いわば一種のバクチ打ちですね。(p21)


■この本で私が共感したところは次のとおりです。


 ・明年こそはT・Tレースに出場せんとの決意をここに固めたのである
  ・・・わた本田技研はこの難事業をぜひとも完遂し日本の機械工業の
  真価を問い、これを全世界に誇示するまでにしなければならない。
  わが本田技研の使命は日本産業の啓蒙にある。(p44)


 ・鈴鹿でみんなにいったことは、帰りのお客さんの顔をよく見て商売しろ、
  ということでした。つまらなそうな顔をして帰ったら、もう二度と
  来ない。それが商売の鉄則だということですね。(p57)


 ・軍部と外交とは車の両輪である、だから、この両輪のバランスが
  とれているときに、国は安定する、というのです。・・・本田
  技研において、国家の軍事力に相当するものが技術力だとすれ
  ば、外交にあたるものは営業力です。(p74)


 ・本田宗一郎、藤沢武夫の特徴は何かといえば、一言でいって、エキス
  パートであるということでしょう。面倒見のいい管理者タイプでは決して
  ありません。本能と直感で動きます。こういう人間は、世間一般の
  組織図で固められた集団のなかでは生きられないのです。(p119)


 ・重役になるくらいの人は、なんらかのエキスパートです。そういう人の
  担当部門をなくし、部下を管理するわずらわしさから離れてもらって、
  身一つで大部屋に集まってもらおうというのが役員室です。・・・重役
  は何もしなくていい。・・・とにかく、みんなで大部屋に入って、毎日
  ムダ話をしていてほしい(p131)


「経営に終わりはない」藤沢武夫、文藝春秋(1998/07)¥460
(評価:★★★☆☆)


読んでいただきありがとうございました!

【本田宗一郎の経歴】
1906年 生まれ。

1922年 高等小学校卒業後、自動車修理工場「アート商会」に入社。

1928年 アート商会から暖簾分けの形で浜松市に支店を設立して独立。宗一郎ただ一人だけが暖簾分けを許される。

1935年 磯部さちと結婚。

1937年 自動車修理工場の事業を順調に拡大させ、「東海精機工業」(現・東海精機)の社長に就任。「アートピストンリング研究所」を浜松市山下町に設立してピストンリング開発に取り組むも、うまくいかず。浜松高等工業学校(現・静岡大学工学部)の聴講生となり、金属の研究をする。

1939年 アート商会浜松支店を従業員に譲渡し、ピストンリング製造を手がける「東海精機重工業」を興し、自動車部品製造に乗り出す。

1942年 東海精機重工業がトヨタから出資を受け、石田退三を社長に迎え、自らは専務に退く。

1945年 三河地震により東海精機重工業浜松工場が倒産。自らの持つ東海精機重工業の株を全て豊田自動織機に売却して同社を退社、「人間休業」と称して1年間の休養に入る。

1946年 本田技術研究所設立。39歳の宗一郎は所長に就任。

1948年 本田技研工業株式会社を設立。資本金100万、従業員20人で二輪車の研究をはじめる。

1949年 藤沢武夫と出会う。

1973年 本田技研工業社長を退き、取締役最高顧問に就任。

1974年 さち夫人とともに世界中の関係者を訪問。

1983年 取締役も退き、終身最高顧問となる。

1989年 日本人として初めてアメリカ合衆国の自動車殿堂入りを果たす。

1991年 84歳で死去。


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