本田宗一郎の書籍を徹底紹介します。





本田宗一郎の哲学―人生は「得手に帆あげて」生きよ |梶原 一明

本田宗一郎の哲学―人生は「得手に帆あげて」生きよ
梶原 一明
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『それは、無理でしょう』とか、『おそらくダメでしょう』といった言葉は、『やってもせんで、何を言っとるか!』という一喝で消し飛んでしまう。(本田宗一郎)


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●『やってもせんで、何を言っとるか!』と言い切れるのは、それまで自分が無理なことでも可能にしてきたのだという自信があるからでしょう。


●そういうふうに私もなりたい、私の願いです。


■この本は、本田宗一郎氏の言葉のところだけ読んでおきましょう。


■この本で私が共感したところは次のとおり。


・まず簡単なところ、楽なところから海外進出するというやり方もあるが、どうせやるなら、小規模でもいいから、いちばんむずかしいところへ出て行って、向うはどういうものであるかということを骨身にしみて覚えようじゃないかという考え方をとったんです。(本田宗一郎)


・日本人の努力というものも、元をただせば、日本が負けたことによってマッカーサーが来て、かつての財閥を解体したりして、それまでの工業の指導者であった年寄りがいなくなって、私ぐらいの若い人間のパワーが出た。・・・・・・老人ばかりの日本になったら、日本はまた近いうちに没落するでしょうね。(本田宗一郎)


本田宗一郎の哲学」 梶原 一明

【本田宗一郎の経歴】
1906年 生まれ。

1922年 高等小学校卒業後、自動車修理工場「アート商会」に入社。

1928年 アート商会から暖簾分けの形で浜松市に支店を設立して独立。宗一郎ただ一人だけが暖簾分けを許される。

1935年 磯部さちと結婚。

1937年 自動車修理工場の事業を順調に拡大させ、「東海精機工業」(現・東海精機)の社長に就任。「アートピストンリング研究所」を浜松市山下町に設立してピストンリング開発に取り組むも、うまくいかず。浜松高等工業学校(現・静岡大学工学部)の聴講生となり、金属の研究をする。

1939年 アート商会浜松支店を従業員に譲渡し、ピストンリング製造を手がける「東海精機重工業」を興し、自動車部品製造に乗り出す。

1942年 東海精機重工業がトヨタから出資を受け、石田退三を社長に迎え、自らは専務に退く。

1945年 三河地震により東海精機重工業浜松工場が倒産。自らの持つ東海精機重工業の株を全て豊田自動織機に売却して同社を退社、「人間休業」と称して1年間の休養に入る。

1946年 本田技術研究所設立。39歳の宗一郎は所長に就任。

1948年 本田技研工業株式会社を設立。資本金100万、従業員20人で二輪車の研究をはじめる。

1949年 藤沢武夫と出会う。

1973年 本田技研工業社長を退き、取締役最高顧問に就任。

1974年 さち夫人とともに世界中の関係者を訪問。

1983年 取締役も退き、終身最高顧問となる。

1989年 日本人として初めてアメリカ合衆国の自動車殿堂入りを果たす。

1991年 84歳で死去。


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